ドストエフスキーの罪と罰についてエッセイを書いたけれどもこれはあくまで僕個人の解釈だなあと感じる出来事があった。
友人宅で放送大学か何かのドストエフスキーの講義番組があった。
ラスコーリニコフに暗号が込められて実はこう言う内容なんですよ。とか9.11のテロ行為に対する警告が込められていたという学者の意見だった。
僕はドストエフスキーの罪と罰を落ちこぼれの再生の物語として受け取っていたが。
学者はラスコーリニコフの老婆の殺害がテロ行為でありその未来のテロ行為の警告だと主張。
同じ物語でも僕と学者の解釈は全く違った。
学者と僕は全く同じ物語を読みながら違う世界を見ていた。
そうだ罪と罰はその学者と僕の姿をそれぞれ写す鏡の役割を果たしていたんだなあと僕は解釈した。
僕は人生につまづき落ちこぼれのラスコーリニコフとマルメラードフに共感して僕はその物語を読んで人生を立ち上げようとする僕自身の姿を罪と罰という物語という名の鏡に映していた。
そしてその学者も9.11のテロ行為で被害にあった人々を救えないままその映像を見ていた歯がゆさを罪と罰のラスコーリニコフが老婆を殺すシーンでその歯がゆさを感じる学者自身を罪と罰という鏡に映していたのだと思う。
私事で恐縮だが僕は現代の文化を僕好みの作品が減っている事にがっかりしている。
しかし同じ時代に生きる兄は今の時代の作品を堪能している。
同じ作品を読んでも同じ時代を生きていても同じ星に住んでいても人それぞれ違う宇宙を生きているのかもしれないと感じた。
住野よるファンの方には申し訳ないが君の膵臓が食べたいの文章が下手だと感じ、僕個人は今の小説はダメになったとがっかりした。
でも君の膵臓を食べたいを心から楽しんでいるファンの方は僕と違う宇宙を感じているのかもしれない。君の膵臓ファンは僕の感想を気にせずどうか楽しんでいてください。
同じ時代の同じ地球に生きながら世界や時代の感じ方は人それぞれなのだと今日気づいたのでした。
人はそれぞれ同じ地球に住みながらもしかしたらそれぞれ違う宇宙に生きているかもしれないと感じた一日でした。