青木氏のエッセイをよく読んでいた。
エッセイの中でときどき青木氏は
罪と罰のあらすじはこうだ
金がなくて学校をやめざるを得なかったラスコーリニコフ
が『僕が学問をして世の中のためになるのなら金貸しの老婆を殺し
金をうばってもいいはずだ。なぜなら僕のような非凡人は人殺しさえ許されるからだ』と考え老婆を殺し金を奪う。
そして酒場でであった借金をして自分の娘ソーニャを娼婦にして暮らしている
マルメラードフとであい
そしてソーニャに自首をすすめられ流刑の地で罪を償うという話だ。
金で転んでしまう話であると主張している。
僕も罪と罰をよんでみた
僕にとってはラスコーリニコフとマルメラードフというふたりの落ちこぼれの物語だと思った。
なぜならば初めて罪と罰を読破したとき仕事でつまづき
これから人生なんとかしなきゃって思ってたから
ラスコーリニコフとマルメラードフに共感してしまったんだろう。
学者はラスコーリニコフが老婆を殺すシーンは未来のテロ行為だと警告していた。
なぜそうなのかなんとなくわかった。
青木氏は様々な職業を転々としていた。お金で苦労した人生をおくっていた。
だから罪と罰のお金の問題に注目したんだと思う。
僕は落ちこぼれた人生をなんとかしなきゃって思ってたから落ちこぼれのマルメラードフに共感したんだ。
学者は9.11のテロのテレビ映像をみながら被害に遭われた方を救うことができなかった自分の歯がゆさを罪と罰のラスコーリニコフに殺される老婆のシーンに投影していた。
つまり読者の人生観を移す鏡の役割をしているのが罪と罰という小説なのかもしれない。
そんなことを考えるようになった。
もしあなたが罪と罰をまだ読んでいなくてこれから読破したとしたら僕とも青木氏とも学者とも違う
あなたにとっての罪と罰が出現するのだと思う。
そうだ読者の数だけ罪と罰という物語があるのかもしれないな。